マタイ9章

9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。

9:2 すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。

 イエス様は、このように語ることで、イエス様を信じる者が罪の赦しを得ることができることを示されました。中風の者の癒やしは、人にはできないことです。彼らは、メシヤと信じてやって来たのです。その信仰によって、罪の赦しが与えられたのです。そのことは、預言に約束されたことです。

エレミヤ書

31:27 「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔く。

31:28 かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る──主のことば──。

31:29 その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。

31:30 人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。

31:31 見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。

31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。

31:33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

31:34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

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 罪の責任は、一人ひとりが負わなければなりません。しかし、メシヤであるイエス様は、その罪を赦す方としておいでになられたのです。その人は、神に受け入れられ、神の民となります。神の民とされた者は、主を知り、心に書き付けられた神の言葉の内を歩むようになります。

9:3 すると、律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で「この人は神を冒涜している」と言った。

 律法学者たちは、イエス様が罪の赦しを宣言されたことに対して、神を冒涜していると言いました。イエス様が人であるのに、神の立場をとったからだと考えていたからです。しかし、彼らは、イエス様が「罪は赦されている」と言ったその言葉によって、イエス様が神であることを知り、信ずるべきであったのです。これほど偉大な宣言はなく、神だけが言えることを語られたのです。ですから、イエス様は、神なのです。さらに言うならば、罪の赦しほど人にとって価値あることはないのです。

 ですから、この人たちの信仰は、非常に価値があります。まだ彼らは、自分たちの経験として奇蹟を見ていないのです。それでも信じました。信じる以外に道がないところに追い込まれた時、彼らは、イエス様を求めたのです。彼が中風になったことは幸いでした。イエス様を求めたからです。そして、罪の赦しという最高に尊いものを獲得しました。これがなければ、この世の人生の終わりも、永遠までもその人の存在価値はないのです。地獄の滅びを永遠に味わうとしたら、何をもって代えうるでしょうか。

9:4 イエスは彼らの思いを知って言われた。「なぜ心の中で悪いことを考えているのか。

 彼らの考えは、悪いことです。なぜならば、正しく判断していないからです。

9:5 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

 彼らは、しるしを求めていました。目の前でしるしを見たならば、あるいは信じたかもしれません。しかし、罪の赦しは、それよりも偉大なことです。むしろ罪の赦しを宣言できる方であるからこそ、神であると知るべきだったのです。

 この質問は、罪の赦しの宣言を見ても信じず、むしろ癒やしのしるしこそ偉大だと考えている人々に対して、ご自分が神であり、罪の赦しの権威を持っていることを知らせるためにされたことです。

9:6 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。

 そして、奇蹟をされたのは、そこにいる人々がイエス様がどのような方かを知ることができるためです。「知るために」と言っておられます。いわば、頑なな考えの彼らに対して、寛容な心で奇蹟を行われ、主が罪の赦しの権威を持っていることを知らせるためだったのです。

9:7 すると彼は起き上がり、家に帰った。

9:8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。

 しかし、人々の反応は、イエス様について正しく知ることはありせんでした。たしかに神を賛美したと記されていますが、「このような権威を人に与えた神」を賛美したのであって、イエス様を人と見ています。彼らは、そのような業をなす方が神であることを信ずるべきであったのです。罪の赦しの権威を持つ方は、神以外にいないのです。その奇跡が神からのものであると認めるならば、罪の赦しを宣言された方は、神でなければならないのです。彼らには、その道理がわかりませんでした。

9:9 イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。

 マタイは、自分の行動について記しましたが、彼は、イエス様の呼びかけに応じたことだけを記しました。これがマタイの信仰です。自分の都合については、一切主張することはありません。召された方に従うのが当然であると認めて、行動したのです。

9:10 イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。

9:11 これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。

 イエス様が食事の席についていた時に、集まった人について記されています。「見よ。」と記されていますので、これは驚くべきことであったのです。もし、食卓に着いていたのがパリサイ人であったならば、彼らは決して食事をともにする気にはならなかったでしょう。パリサイ人たちは、彼らのことを「取税人たちや罪人」と言っています。彼らは、蔑まれていたのです。自分のことを悪く思う人と、ともに食事をする気にはなりません。ご飯がまずくなります。

 イエス様とともに食事をしたことは、彼らがイエス様に心を開いていたとこを表しています。それは、イエス様が彼らを大切な一人ひとりと考えていたからです。相手を慈しむ心がなければ、相手は心を開きません。

9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。

 パリサイ人たちは、罪人は救いようがなく、見捨てるべきだと考えていました。もはや価値のないものとみなしていたのです。しかし、イエス様は、罪人が救われるために罪人の必要に応える方であるのです。医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく、病人です。病人は、もはや役に立たないと言って捨てていいものでしょうか。医者の手によって治すこともできるのです。罪人にこそ、それを癒やすことができる方が必要であり、手を差し伸べるべきなのです。

9:13 『わたしが喜びとするのは真実の愛(契約に対する忠誠すなわち誠実)。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

 「真実の愛」と訳されている語は、「契約忠誠あるいは、契約愛」です。神の契約に対する忠誠として定義されます。神様が求められるのは、契約を誠実に守ることです。それは、型通りに守ることではなく、契約を誠実に守ることなのです。それは、型どおりにいけにえを捧げるようなことではないのです。外面的な行いをしていたとしても、神様が喜ばれることはありません。神様が喜ばれることは、神の御心を誠実に行うことなのです。

9:14 それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。

9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。

 イエス様は、今、断食をする必要性がないことをご自分を花婿に例えて話されました。断食の意味は、肉の欲を断ち、神の御心を行って生きることです。形式として食を絶っても、意味はありませんし、神が喜ばれわけでもありません。

 弟子たちの喜びは、主と共に歩み、神の御心の実現のために仕えていたことです。彼らは、主の友人として、主の喜びを共有していました。主の喜びは、花婿として花嫁を迎える喜びです。これは、主が御言葉を宣べ伝えることで、人々を立ち返らせる働きです。主は、ご自分のものとして迎えるために喜んで働いておられます。友人としての弟子たちは、主に仕える者として、その喜びを共有しているのです。今、彼らに断食は、必要ありません。

 しかし、主が取り上げられたとき、その日には、断食します。その断食は、肉の欲を断ち、聖霊によって歩むことを表しています。彼らは、完全な断食に入るのです。

詩篇

指揮者のために。ダビデの賛歌。

19:1 天は神の栄光を語り告げ大空は御手のわざを告げ知らせる。

19:2 昼は昼へ話を伝え夜は夜へ知識を示す。

19:3 話しもせず語りもせずその声も聞こえない。

19:4 しかしその光芒は全地にそのことばは世界の果てまで届いた。神は天に太陽のために幕屋を設けられた。

19:5 花婿のように太陽は部屋から出て勇士のように走路を喜び走る。

19:6 天の果てからそれは昇り天の果てまでそれは巡る。その熱から隠れ得るものは何もない。

19:7 主のおしえは完全でたましいを生き返らせ主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。

19:8 主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ主の仰せは清らかで人の目を明るくする。

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 これは、主が御言葉を喜びをもって伝え、人々を立ち返らせる働きを表しています。太陽として示されている花婿は、イエス様の比喩です。それは、たましいを生き返らせる教えをあまねくもたらす方を表しています。

9:16 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。

 新しい服は、イエス様を着ることを表しています。そのようにして、イエス様を信じる者がイエス様を表す者として生きるようになることです。そのような教えの一部を律法の規定を守って証しを保つ旧約の教えに変更を加えようとしても、合わないのです。また、そのために、新しい教えに変更を加えることもできないことです。

9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」

 葡萄酒が表すことは、自分を捨てることです。断食の意味は、新約の教えでは、肉を捨て、新しく生まれた者として、聖霊によって生きることを表していますが、旧約では、食物を断つことが命じられました。霊的な意味は同じですが、実際の行為が伴うのです。新しい教えを旧約の規定に適用したならば、旧約の定めを否定することになり、皮袋は、だめになります。

 比喩として示されてきた旧約の教えに対して、その成就は、高度に霊的なものです。断食は、肉欲を捨て、身を聖別することの比喩です。ヨハネの弟子たちは、文字通りの断食をすることを考えていましたが、霊的には、肉を捨てて、神に身を聖別することを表しており、単に食物を断ち、食欲に従わないことだけを意味していません。あらゆることにおいて肉を捨てるのです。旧約の規定に慣れ親しんできた人々にとって、文字通りの行為がないことを理解できないのです。

 いけにえを捧げることもそうです。そのいけにえは、イエス様を表していました。そのイエス様が十字架にかかられて、贖いの業を完成されたのです。血による代価を払うことで、罪の赦しが与えられる道が開かれたのです。ですから、もはや動物のいけにえを捧げる必要はないです。それらは、イエス様を比喩として表すものであったのです。イエス様がおいでになって、そのいけにえによって表される比喩が実現したならば、その比喩をいつまでも行う必要はないのです。

9:18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。

 マタイの記述は、他の福音書とは異なり、物事の本質的な部分を取り出して記しています。会堂管理者の信仰に対してイエス様が応えられたことが要約されて記されています。

9:19 そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも従った。

9:20 すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。

9:21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。

 この女の人が近づいた目的について記されています。それは救いのためです。これは、病気からの救いでしょうか。イエス様が同じ「救い」という言葉で答えられてることを見ると、彼女には、神の前に救いをいただきたいという考えがあったのです。彼女は、その病を汚れたものと承知していました。

レビ記

15:25 女に、月のさわりの期間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出があるか、あるいは月のさわりの期間が過ぎても漏出があるなら、その汚れた漏出がある間中、彼女は月のさわりの期間と同じように汚れる。

15:26 その漏出の間は、彼女の寝た床はすべて、月のさわりの時の床と同じようになる。彼女が座った物はすべて、月のさわりの間の汚れのように汚れる。

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 彼女は、この方に触れさえすれば、救われると考えて触ったのです。ですから、彼女は、この方によってきよめられると信じて触ったのです。

ゼカリヤ書

13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。

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9:22 イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。

 彼女を救ったのは、彼女の信仰です。メシヤとしておいでになった方を信じたのです。その方であるならば、汚れをきよめ救ってくださるはずです。その信仰に応えたのです。

 その時から彼女は、「癒やされ→救われ」ました。問題は、病気の癒やしではないのです。彼女自身が、救いということを強く意識してイエス様に近づいたのです。彼女は、救われたのです。

9:23 イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、

9:24 「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。

 群衆にこのように言われたのは、群衆がこの女の子はもう死んでしまって、人は何もできないと考えていたからです。群衆があざ笑ったのは、少女が死んでしまったことをたしかに知っていたからです。また、死に対して何人も無力であると考え、たといイエス様でも、それは不可能であると考えていたからです。

9:25 群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。

 イエス様は、女の子の手を取りました。女の子は起き上がったのです。

9:26 この話はその地方全体に広まった。

 そのことがいかに偉大なことであるかがこの言葉でわかります。この話がその地方全体に広まったのです。

9:27 イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。

 目の見えない二人は、イエス様に願いました。その時、呼びかけた言葉は、「ダビデの子よ。」です。これは、聖書に預言されていることで、ダビデの子孫としてメシヤが来られることです。メシヤは、神の御子です。神が人となって来られるというのがその預言です。そして、その時、目の見えない者も目が見えるようになると記されています。

イザヤ書

35:3 弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。

35:4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」

35:5 そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。

35:6 そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。

35:7 焼けた地は沢となり、潤いのない地は水の湧くところとなり、ジャッカルが伏したねぐらは葦やパピルスの茂みとなる。

35:8 そこに大路があり、その道は「聖なる道」と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、その道を行く者たちのもの。そこを愚か者がさまようことはない。

35:9 そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ることはなく、そこには何も見つからない。贖われた者たちだけがそこを歩む。

35:10 主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。

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 そして、「私たちをあわれんでください。」と願いましたが、その意味は、「契約を果たしてください。」という大胆な願いです。なぜそのように言うことができるでしょうか。それは、契約であるからです。信仰によって、イエス様をおいでになるはずのメシヤであると信じたのです。その信仰に応え、約束を果たすことは、契約の履行なのです。どうしても果たさなければならないことであるのです。しかも、この「あわれみ」と約されている言葉は、その契約を忠誠をもって果たすという意味があります。神様は、信仰に対して、忠誠をもって契約を果たされるのです。

・「あわれむ」→契約を忠誠をもって果たす。

9:28 イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。

 イエス様は、すぐにその場では応えられませんでした。彼らの信仰を現させるためです。「わたしにそれができると信じるのか」と。彼らは、目が不自由でしたが、イエス様についてきたのです。いわばしつこくつきまとったのです。イエス様になんとしてでも癒やしていただきたいからです。二人の言い表しは、明確でした。「はい、主よ。」と。彼は、イエス様を主と言い表しています。

9:29 そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。

 イエス様は、彼らの信仰のとおりになれと言われました。彼らの信仰が本当のものでなければ事は実現しないのです。ですから、彼らが癒やされると信じていたことは確かなことです。

 その一方で、イエス様は、彼らの目に触られました。それは、彼らの信仰の程度に応じたことです。触っていただければ治ると考えていたのです。彼らは、イエス様を信じていましたが、神の御子の力を小さく考えていました。これは、残念なことです。ただ、イエス様は、小さな信仰にも応えられました。

9:30 すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。

 彼らの目は開きました。彼らの信じたとおりになったのです。

9:31 しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた。

 しかし、残念なことに、二人は、イエス様の言葉を守りませんでした。彼らは、イエス様がメシヤであると信じたのです。そして、その信仰に応えられ、それが確かなことであることを知ったのです。ですから、それを伝えてもいいと考えました。しかし、彼らのしたことは、イエス様の言葉に背くことでした。イエス様は、彼らの証しは、必ずしも幸いなものでないことを承知しておられたのです。彼らは、イエス様が天地創造の神であるという信仰には至っていませんでした。「主よ。」と言い表しましたが、自分の主として服従する態度を十分には見せなかったのです。その言葉を守ろうとしませんでした。彼らは、イエス様のことを知らせたいと考えましたが、その証しを担うにはふさわしくなかったのです。彼らは、イエス様について良くは知らなかったのです。そのような人がイエス様のことを正しく伝えることができるでしょうか。目が癒やされたことを伝えることはできても、イエス様がどのような方であるかを伝えることが出来とは限らないのです。それは、彼らがイエス様を知っていないからです。

 これは、今日、イエス様を伝える者にとっても教訓となります。実は、日々の歩みの中でイエス様を知ることがないのに、伝えようとするのです。この方を神であり、主である方として服従していないのに、神としてのイエス様を伝えようとするのです。その方の愛について何も分かっていないのに、その愛を伝えようとするのです。まず、自分がイエス様を知らなければならないのです。

9:32 その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。

9:33 悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。

9:34 しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

 悪霊に憑かれて口の聞けない人が連れて来られました。悪霊が追い出されたのです。それで口がきけるようになりました。

 人々の反応は、驚きです。そして、こんな事はいまだかつて見たことがないと言いました。しかし、それ以上のことは彼らは考えませんでした。目の前に起きた驚くべき事実は認めましたが、それをした方について知りませんでした。永遠の御国の入り、祝福を受けることを考えている人にとっては、イエス様をよく知ることができたのです。

 また、バリサイ人は、その業が、悪霊の働きであると決め付けました。

 同じ事実を見ながら、人は、異なる反応を示しています。神の救いを求めない人にとっては、事の重大さがわからないのです。

9:35 それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。

 イエス様の働きは、「御国の福音」を伝えることでした。御国に入ることすなわち、御国で報いを受けることについて伝えていたのです。イスラエルは、すでに神を信じているのです。神はいないと言ったり、他の神があると言ったら、彼らは、殺されるか、他の国に逃げなければならないのです。その彼らにとって、契約を守ることが祝福の道なのです。特にこの時には、神から遣わされた契約の使者が来たのですから、その方を信じなければならなかったのです。この時代の人々の責任は大きいのです。メシヤがおいでになられたのですから、信じないならば、滅びるのです。神がおいでになられたのに、それを否定するからです。

 イエス様の奇蹟は、御国の福音を確かなものとするためです。福音だけでなく、しるしを与えてそれを確かなものとしたのです。ですから、語られた言葉信じないならば責任は大きいのです。イエス様を神の御子と信じなければ救われないのです。

9:36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。

 群衆が弱り果てて、羊飼いのいない羊のように捨てられているのをご覧になられて、「心が動かされた」のです。

9:37 そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

9:38 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

 彼らには、救いが必要でした。羊飼いのいない羊のように弱り果てて捨てられたような状態でした。彼らを養い、導く者がいなかったのです。当時の指導者は、霊的には腐敗していました。人々が神の国を相続できるように導くことをしなかったのです。自分の誉れしか考えていませんでした。

 その弱り果てている民こそは、神様にとって獲得すべき人々でした。神様は、御自分の収穫としてそれを収穫することを望みイエス様を遣わされ、イエス様は、弟子たちを遣わしたのです。しかし、まだ働き人が不足していました。